明治大学でのメビウスのシンポジウムに行ってきました。
11時過ぎに整理券を受け取りに行ったのですが、その時点で350番台。
最終的には二階まで満席の様で、入り口のところで
『ユーロマンガ』Vol.1を配布していました。(フレッドさん、がんばってるな〜)
シンポは二部構成となっていて、一部はメビウスの紹介も兼ねて、藤本さんからメビウスへのインタビュー。
二部では、浦沢さん、夏目さんを交えての、メビウスのBDの漫画家への影響、特に描線としての影響に視点を搾った対談。
そして最後はおまけのハプニング!
仏語で聞き取るようにしていたので、通訳されていた内容と多少違うと思いますが、自分の記録として内容をまとめておきます。
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Q1 『ブルーベリー』が代表作ですが、なぜウェスタンを選んだのですか?
A1 第二次大戦後、ウェスタンはアメリカ文化の象徴であった。
つまりアメリカ人とはヨーロッパからの移民であり、それは元からいた住民との文化の交流でもあり、またメビウスの世代にとってはテクノロジーの台頭によりインディアンの文化が消失の危機にさらされた事の象徴でもあった。
『インサイド・メビウス』という作品の中で、ジェロニモとビンラディンの邂逅があるが、立場ややり方の違いはあるがどちらも外からきた文化にたいする旧世代の抵抗のような行為において共通点があると思う。
自身が50年代の半ば、17歳の頃に離婚した母親とともにメキシコで過ごしたことも、砂漠のような乾いた風景をよく描くようになるという形で影響があったと思う。
Q2 あなたにとってのアメリカとは?
A2 10代の頃過ごした50年代のメキシコには、まだ19世紀の文化が残っていた。
ジャン・ジローからメビウスになってからも、当時の体験が重要だった。
アメリカ文化はとても魅力的であり、甘美であり、同時に危険でもあり、それは日本でも同様に感じていると思うし、フランスもその危険性を感じている。
だからアメリカ時代(1988年)に、スタン・リーの原作で『シルバーサーファー:パラブル』 Silver Surfer: Parable (1988年〜1989年、メビウス名義)の作画を担当した時にも、アメリカ文化に足を踏み入れ深入りしすぎないように注意していた。
※Copine-m注釈:ここでの表現が面白くて、<poser le pied dans le territoire>という表現で、領地に片足を突っ込むというような言い方でした。なんか本当に敵陣に踏み入るみたいな異文化に対する用心深さを感じます。
Q3 メタルユルラン誌に「ラルザック」を掲載した頃の時代背景と、何を目指していたのか?
A3 7〜8歳の頃はまだ子供向けのBDしかなく、そういう雑誌を読んでいた。
17〜8歳の頃になると、親が図書館から借りて来た画集などを目にし、ピカソなど大人向けのアートに目覚める。
当時はまだBD(バンド・デシネ)といえば、まだ子供向けの読み物であり、漫画家を目指し始めた10代半ば頃に、BD作家になるべきか?画家として大人向けの作家を目指すべきか悩んだ末、大人向けのBDを描く道を選び、「メタル・ユルラン」を発行した。
※Copine-m注釈:大人向けの表現という意味合いで、<lafiguration narrative>(物語風の表現)という言い方をしていました。
砂漠の乾いた描写を通して、読者が心象風景を感じたりするようなメビウス独特の表現の事でしょう。
Q4 『ブルーベリー』から『ラルザック』ヘ(つまりジャン・ジローからメビウスへのスタイル(描線)の変化とは?
A4 スタイルの違いを指摘されるが、子ども向けのBDからSFやファンタジーをメビウス名義で表現する事での画家としての描写の変化の現れである。
デッサンとは「わたしというもの」を示す窓のような者であり、(それは変化するものであるから)玉手箱のように何が現れるか分からない。
とはいえ、市場の要求とのバランスは重要で、商業作家としては売れる物も描かなければならない。「タンタン」や「アトム」のように、読者の要求を保ちつつ描き続ける事は凄い事である。
自分の考えや内面を他人に見せる事は恐ろしいことであるが、面白い。
ここまでが前半です。最後の話は商業作家としても成功しているプロとしての話としてとても興味深かったです。
メビウス氏の仏語は聞き取りやすく、アグレッシブでなく子どもでも分かり易い話し方でした。真のプロとは、子どもでも理解出来るような話し方ができる人であるという私の中の確信がますます強まりました。
では後半戦に行ってみましょう!
浦沢氏、夏目氏それぞれのメビウスとの出会いについて。
浦沢氏:1982年頃の「スターログ」誌の紹介記事で初めて知る。
「あ、まさに俺が描きたかった絵はこれだ!」と衝撃を受けた物の、自分がメビウスの真似をしてなる必要も無く(二人はいらない)オリジナルの道を模索し作家デビューする。
夏目氏:「ヘヴィーメタル」誌版の「ラルザック」を古本屋で見つけて知る。
当時(7〜80年代)はカウンターカルチャーの一部として、青年劇画誌やSF雑誌に海外マンガが紹介されていた。
『SF宝石』において、「日本のメビウス」という紹介文とともに大友克洋の「FLOWER」が掲載されていた。そこから「NARUTO」の作家や鳥山明などにメビウスの影響は広がって行った。
手塚氏は「メビウス雲」と名付けた雲の描写を弟子達に指示して描かせていた。
夏目氏Q1 メビウスから観た日本のマンガとは?
A1 1981年頃アングレームに手塚治虫が招待された。初対面の時の印象は「シンプルで子どもっぽいマンガを描く人」でとても親しみやすいベレー帽をかぶり耳にペンをさし、眼鏡の奥でにこやかに笑っている人だった。
翌年だったか82か83年に手塚氏が自分を日本へ招待してくれた当時は、まだマンガはフランスでは知られてなかった。
そして手塚氏の仕事場での分業スタイルや、アニメーション(16mm版の「火の鳥」)を見せてもらい、彼を見誤っていた事を痛感し、スバラシイ作家だと確信した。
また街の書店でマンガ(モノクロのソフトカバー:つまり単行本)やマンガ雑誌が普通に大量に売られているのを目の当たりにしてショックをうける。
マンガのトーン使いも新鮮であった。
まるでコロンブスが新大陸を発見したような心境であった。
またSEXやエロの表現にもびっくりした。
『AKIRA』を描く前の大友克洋にも感激した。
帰国後、フランスのあちこちでマンガの重要性、素晴らしさについてプロパガンダのように語りまくり、日本文化を紹介していた。
※Copine-m注釈:このあたりはちょっと注釈が必要でしょう。
まずフランスのおけるBDの書店での取り扱いですが、いまでこそfnacやHMVなどでフロアが用意され一般の本と一緒に売られていますが、普通はBD(バンド・デシネ)専門の書店でしか扱っていません。また日本のように週間や月刊のマンガ雑誌もほとんど存在しないし、それをキヨスク(フランスにもあります)で売っていません。
だから駅の売店にマンガが売られていて電車の中で読まれていたし、また青年誌に裸の女性などか描写されているのはかなりショッキングだったのではないでしょうか。
なんとなくヨーロッパ=性表現におおらかという印象が「エマニュエル夫人」とかサドとかによってありますが、当時BDにおいてはそんな事はなかったと思います。
大友氏のメカやロボットなどの表現に革命的な物を感じ、大友のスタイルをメビウスがまねてみたけれど(この部分は聞き間違いかもしれません)大友には大友のスタイルがあり、上手くはいかなかった。
マンガは人物の内面描写が素晴らしい。
浦沢発言 (スケッチブックに
えっと、えっと」とぶつぶつ絵を描きながら)メビウスから自分が学んだ事は、こうやって今自分は「えっと…」といいながら絵を描いたけれど、その時点で頭のなかに何となく描きたい物があり、それを描きだす時に描線の迷いが無い。
このなんとなくという『ゆらぎ』の感覚すらもコントロールして描く事を学んだ。
陰影をつける描写ひとつさえも必要だから描いているので、下書きをして描くのではなくいきなりペンで描いてもこういう絵えお描くべきである。
しかし日本の仕事の現状においては、生産効率をあげる為にアシスタントを雇い、彼らに自分の描いて欲しい絵を描いてもらう為に写真などを資料として渡すと、「これをそのままトレースしてもいいですか?」と聞かれてしまう。
本来なら自分の線で描きたいところだが、それを言葉で伝える事は難しく、「ゆらぎの感覚」がうまく伝わらないくらいなら「ま、写してもいっか」となってしまう。
しかし本来はトレースはコピーであり、頭の中から出て来た表現ではない。
写真の風景を描くとしても、それが頭の中で(再構成された自分のみたい風景として)現れ描くのが理想である。
夏目氏Q2 独特のコマの使い方について?
A2 即興で四角いコマを一つ描き、左に何か文句をいっている人物を描く。この時点では
まだ何を書くかはっきりとは決まっていない。
右の空いた部分に二人目の文句を言い返しているような人物を描き吹き出しをつける。
これで次のコマに続く。
二つ目のコマを描き、二人が空中でダンスするようなイラストを描くと、なんとなくハッピーエンドっぽく結末がつく。(ものすごく描くのが速いです)
しかしこれはあくまでも即興であり、実際には台詞があり最後の一コマまで厳密に計算されているので、その規制の中で空間と時間を操る。
※Copine-m注釈:このあたりはもうちょっとつっこんで話を聞きたかったのですが、かなり専門的になってしまうのと時間もなかったので追求不足で残念でありました。
というかなんか質問の意図と答えがずれていたような。。。
即興で描くメビウスの線に迷いはなく、かなりフリーに描いている印象はありましたが、実際に作家が一冊のBD制作にかける時間のスパンが1年2年は当たり前という状況をみると、実際の制作においては下書きがなくともかなり何度も没原稿を描き、構成を詰め書き直しているのだろうという事が想像できます。
つまりメビウスの空間と時間のコントロールは当たり前ですが、そうとう計算されたもの、あるいは繰り返す事により革新的に手から描かれたものではないかと思います。
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その後は会場にいらしていた著名作家さんのご挨拶。
永井豪先生のうしろにちらっとうつっているのは。。。。おお!!荒木飛呂彦先生じゃないですか。
この時点で、「ズキュ〜〜ン
」となってしまい、その後の記憶は定かではありません。
谷口ジロー氏もいらしていて、それぞれのメビウス体験やら思いを語って下さいました。
ちなみに荒木氏は「大友先生や鳥山先生、浦沢先生が雑誌で直接メビウスをしった弟子だとすれば、自分は「へぇ〜大友先生が影響をうけたメビウスってどんな作家だろう?」と二次的に興味をもった孫弟子です」とおっしゃってました。
最後にメビウス氏の締めのお言葉として、もともと北斎や日本文化や伝統に興味が会った事。1920年代の仏男は女性をナンパする時に「家に北斎の版画があるけど見に来ない?」と誘っていたらしいけれど、今はきっと「家にマンガがあるけど見に来ない?」というのだろう。
なんて話も付け加えてくれました。
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あっという間に3時間が過ぎ、時間が足りないなぁという感じでした。
でもけっこういい対談だったと思います。さすがにデディカスはありませんでしたが。
長々と読んで下さいありがとうございます。